2015.01.24 (Sat)
日本のパロディ音楽芸の火は消えない
少し古い話だが、年始に放映されたゴッドタンの芸人マジ歌選手権について書きたいと思う。
とはいえ、その内容についてはもう色々なところで書かれているので、細かくは触れない。
ここで言いたいのは、パロディ音楽芸というジャンルの今後についてである。
ご存知の通り、以前からマジ歌選手権では、有名なアーティストのパロディ曲が多数披露されてきた。
フットボールアワー後藤のBLANKY JET CITY風の曲、角田バンドの佐野元春風の曲、そして現代のパロディ音楽の旗手マキタスポーツのビジュアル系バンド風の曲などである。
それらは、芸人が特徴あるアーティストを本格的になぞればなぞるほど、歌詞世界とのギャップで面白くなる鉄板の構図であり、マジ歌の骨幹をなしているジャンルと言える。
しかし、私は、今回のマジ歌があるまでは、このパロディ音楽芸に対して危機感を持っていたのだ。
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この文章でいう「パロディ音楽芸」とは「真面目かつ本格的にその人風の音楽をやりながら、笑いをとる」芸のことである。広義で捉えれば、モノマネや替え歌まで入れるべきなのかもしれないが、ここではもう少し狭く考える。
日本におけるこの芸の第一人者は、間違いなくとんねるずである。
歴史を紐解けば、原曲サイドからの抗議により即廃盤となったタモリの『タモリの戦後日本歌謡史』などもあるし、海外でいえばアル・ヤンコビックなどもいるのだが、徹頭徹尾これをやりきったという意味では、とんねるずが最強なのは異論がないだろう。
近年、とんねるずは音楽活動自体をしていないし、シングル曲としてはあまりこういう側面は見せていなかったので意外に思う人もいるかもしれないが、アルバムでは(とくに初期は)パロディ芸のオンパレードである。
たとえば、1985年のアルバム「仏滅そだち」でいえば「チェックのシャツでボンヨヨヨーン」はイントロでわかるチェッカーズパロディであり、「Shikato」は佐野元春パロディである。
その後も、とんねるず(およびそのスタッフ)はコンスタントにパロディ曲を作り続け、12枚目のアルバム「ほのちゃんにはがはえた」13枚目のアルバム「みのもんたの逆襲」あたりは、ほぼ全ての収録曲がパロディであった。
パロディとなる対象も、ローリングストーンズ、安全地帯、アリス、矢沢永吉、小田和正、山下達郎、TM NETWORKなど大御所や人気のアーティストばかり。無駄に高い再現性と詞のくだらなさが、とんねるずパロディ芸の真骨頂であった。
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パロディ音楽芸というのは、元ネタがあってはじめて成立する芸である。
そして、元ネタというのは誰もが知っているものでなくてはならない。
私が、このジャンルの行く末に危機を感じるのは、近時の日本において、誰もがその特徴を知るアーティストというのが減っているから、である。
モノマネだったら、声が似ていれば、顔が似ていれば、特徴をとらえていれば、それでいい。
しかし、パロディ音楽芸は、大勢の人に「○○っぽい音楽」と思わせるアーティスト固有の色が必要だ。
芸人はたくさんいても、パロディ元の音楽が衰退してしまえば、パロディ音楽芸は成り立たなくなる。
結果として、これまで、マジ歌選手権も「過去の大物」のパロディに終始してきた。
誰もが知っているかどうかわからない人のパロディをするよりも、確実に誰もが知っている人のパロディをする方が安全である。保守的になるのはやむを得ないことだが、それでは未来に向けてストックを食いつぶすだけだ。
そういった意味で、今回のマジ歌において大きな意味があったのは、「マスタニー」でも「鹿賀丈史」でも「ラジオスター」でもなく、角田バンドとロバート秋山のパートである。
今回、角田バンドは「ゲスの極み乙女」風の歌、そしてロバート秋山(の前半)は「SEKAI NO OWARI」風の歌を披露した。いずれも「最近人気のアーティスト」であるところに意義がある。
とくに「SEKAI NO OWARI」については、昨年4月に「しゃべくり007」に登場した際、百戦錬磨の芸人もやや腫れ物に触るような対応をしたくらいであり、題材とするのは勇気がいったはずである。
しかし秋山は、堂々とトランシーバーマイクで「ギムスの時計台目指し 聖地コピュリアン この地球(ほし)さ」と歌ってみせた。
パロディに足るキャラクターを持ったアーティストが新たに登場してヒットを飛ばし、それを芸人が全力でパロディにする。このサイクルが健全に回るならば、マジ歌選手権はまだまだ歴史を重ねられる。
そんなことを考えた正月であった。
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尚、芸人の世界とは全く異なるジャンルで、極めて高いクオリティを見せているパロディ音楽芸として、戦国鍋TVも挙げておきたい。番組自体はすでに終了したが、昨年末に全く同コンセプトの「世界史ちゃんTV」が復活放映している。
とはいえ、その内容についてはもう色々なところで書かれているので、細かくは触れない。
ここで言いたいのは、パロディ音楽芸というジャンルの今後についてである。
ご存知の通り、以前からマジ歌選手権では、有名なアーティストのパロディ曲が多数披露されてきた。
フットボールアワー後藤のBLANKY JET CITY風の曲、角田バンドの佐野元春風の曲、そして現代のパロディ音楽の旗手マキタスポーツのビジュアル系バンド風の曲などである。
それらは、芸人が特徴あるアーティストを本格的になぞればなぞるほど、歌詞世界とのギャップで面白くなる鉄板の構図であり、マジ歌の骨幹をなしているジャンルと言える。
しかし、私は、今回のマジ歌があるまでは、このパロディ音楽芸に対して危機感を持っていたのだ。
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この文章でいう「パロディ音楽芸」とは「真面目かつ本格的にその人風の音楽をやりながら、笑いをとる」芸のことである。広義で捉えれば、モノマネや替え歌まで入れるべきなのかもしれないが、ここではもう少し狭く考える。
日本におけるこの芸の第一人者は、間違いなくとんねるずである。
歴史を紐解けば、原曲サイドからの抗議により即廃盤となったタモリの『タモリの戦後日本歌謡史』などもあるし、海外でいえばアル・ヤンコビックなどもいるのだが、徹頭徹尾これをやりきったという意味では、とんねるずが最強なのは異論がないだろう。
近年、とんねるずは音楽活動自体をしていないし、シングル曲としてはあまりこういう側面は見せていなかったので意外に思う人もいるかもしれないが、アルバムでは(とくに初期は)パロディ芸のオンパレードである。
たとえば、1985年のアルバム「仏滅そだち」でいえば「チェックのシャツでボンヨヨヨーン」はイントロでわかるチェッカーズパロディであり、「Shikato」は佐野元春パロディである。
その後も、とんねるず(およびそのスタッフ)はコンスタントにパロディ曲を作り続け、12枚目のアルバム「ほのちゃんにはがはえた」13枚目のアルバム「みのもんたの逆襲」あたりは、ほぼ全ての収録曲がパロディであった。
パロディとなる対象も、ローリングストーンズ、安全地帯、アリス、矢沢永吉、小田和正、山下達郎、TM NETWORKなど大御所や人気のアーティストばかり。無駄に高い再現性と詞のくだらなさが、とんねるずパロディ芸の真骨頂であった。
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パロディ音楽芸というのは、元ネタがあってはじめて成立する芸である。
そして、元ネタというのは誰もが知っているものでなくてはならない。
私が、このジャンルの行く末に危機を感じるのは、近時の日本において、誰もがその特徴を知るアーティストというのが減っているから、である。
モノマネだったら、声が似ていれば、顔が似ていれば、特徴をとらえていれば、それでいい。
しかし、パロディ音楽芸は、大勢の人に「○○っぽい音楽」と思わせるアーティスト固有の色が必要だ。
芸人はたくさんいても、パロディ元の音楽が衰退してしまえば、パロディ音楽芸は成り立たなくなる。
結果として、これまで、マジ歌選手権も「過去の大物」のパロディに終始してきた。
誰もが知っているかどうかわからない人のパロディをするよりも、確実に誰もが知っている人のパロディをする方が安全である。保守的になるのはやむを得ないことだが、それでは未来に向けてストックを食いつぶすだけだ。
そういった意味で、今回のマジ歌において大きな意味があったのは、「マスタニー」でも「鹿賀丈史」でも「ラジオスター」でもなく、角田バンドとロバート秋山のパートである。
今回、角田バンドは「ゲスの極み乙女」風の歌、そしてロバート秋山(の前半)は「SEKAI NO OWARI」風の歌を披露した。いずれも「最近人気のアーティスト」であるところに意義がある。
とくに「SEKAI NO OWARI」については、昨年4月に「しゃべくり007」に登場した際、百戦錬磨の芸人もやや腫れ物に触るような対応をしたくらいであり、題材とするのは勇気がいったはずである。
しかし秋山は、堂々とトランシーバーマイクで「ギムスの時計台目指し 聖地コピュリアン この地球(ほし)さ」と歌ってみせた。
パロディに足るキャラクターを持ったアーティストが新たに登場してヒットを飛ばし、それを芸人が全力でパロディにする。このサイクルが健全に回るならば、マジ歌選手権はまだまだ歴史を重ねられる。
そんなことを考えた正月であった。
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尚、芸人の世界とは全く異なるジャンルで、極めて高いクオリティを見せているパロディ音楽芸として、戦国鍋TVも挙げておきたい。番組自体はすでに終了したが、昨年末に全く同コンセプトの「世界史ちゃんTV」が復活放映している。
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