2014.05.12 (Mon)
ただ人の悪口を言うだけでは芸にならない時代の悪口の言い方
先日、第49回上方漫才大賞に選ばれた笑い飯の哲夫が坂上忍を批判する発言をしたとして、話題になった。
長いのだが産経の記事を引用する。
「テレビで坂上忍ばっかり出さないようにする。本当に面白い上方芸能を出していく!」
おめでたい席で、マイクを向けられた哲夫さんが言い放つと、周囲は一瞬凍りつきました。お祝いに駆けつけた小籔千豊さんがすかさず「ものすごくいい人ですよ。僕メル友ですから」とフォローしたものの、客席からはこの日一番の拍手が起きました。この後行われた受賞会見でも、哲夫さんの“独(毒)演”は止まりませんでした。
「大賞受賞者ということを自負して、今後の上方芸能のリーダーになるべく、まい進していきたい。その小手調べに坂上忍を落としていく」
最初はタレント同士のよくある話と思っていましたが、この後、彼の発言が説得力を帯びて耳に入ってくるのです。
「(僕らの漫才が)国民の皆さんの疲れを癒やせる娯楽になればいい。疲れを癒やすには腹の底から笑うこと。でも、昨今の全国番組を見ていて、他人の悪口を言う“坂上的発言”では皆さんの疲れを癒やせていないのではないか。あの人が出ることで、上方を代表するような芸人の枠が1つ減ります」
「大阪のテレビ局発の全国番組がもっと増えていかないといけない。そういう中で、自分の冠(番組)で発信していけたらと思います。あと15番組ぐらいあっていいと思います」
なかなかの宣戦布告だと思う。
しかし、ここで私が話したいのは、哲夫擁護でも坂上擁護でもなく、現代において人の悪口を芸とすることの難しさ、である。
その昔、1980年漫才ブームの頃、春やすこ・けいこという女性漫才コンビがいた。
彼女達の芸は、やすこが芸能人の悪口をまくしたて、けいこがそれを諌めるというもので、「松田聖子のレコード大賞新人賞な、あれ絶対うそ泣きや、涙一滴も出てへん」「あんた何いうてるん」的なストレートな悪口であった。
当時、やすこ・けいこに対しても、悪口を言われた芸能人ファンから風当たりはあったようだが、当の彼女達は、ただひねりのない悪口を言っていただけにも関わらず、漫才だけでなくドラマ出演、グラビア、レコード発売、など大いに人気を博した。
もちろん彼女達が、そこらのアイドル以上に優れたルックスであったというのも人気の要因ではあったが、ただの罵詈雑言が芸とされていた時代があったのは間違いない。
時は流れて2011年、THE MANZAIで、女性漫才コンビ・チキチキジョニーが決勝進出した。
彼女達が披露したのは、今は1980年か、と見まがうばかりのストレートな女性芸能人悪口漫才で、つっこみの勢いでメガネが落ちるトラブルがウケた以外、正直会場の雰囲気は苦笑いであった。
ネットでもかなりの炎上があり、チキチキジョニーはこの後本気でこの路線で行く気だろうか、と思っていたのだが、最近テレビで見かけた彼女達はいつのまにか、全く正反対の「ブス自虐ネタ」に様変わりしていた。
-----
プライドさえ捨てれば自虐の方が楽に決まっている。
ネットで一般人が罵詈雑言を書き込める現代において、人の悪口を公に言うには「力」あるいは「技術」が必要になった。
悪口を芸と出来るのは選ばれた人間なのだ。
「力」というのは、相手にも世間にも有無を言わさない圧倒的な権力のことである。これは大御所やご意見番と呼ばれる人にだけ許された特権だ。
対して「技術」というのは「悪口を言うべき人間かを見極める技術」であり、また「反撃を許さない程にひと太刀で相手を斬る技術」である。簡単に言うと「相手にも世間にも、有無を言わせないほど面白い悪口が言える技術」である。
口で言うのは簡単だが、芸能界で、今、この境地に辿り着いているのは有吉弘行ほか数人しか居ない。つまり余程の才能と運がないとダメだということである。
ならば、猛烈な頭の回転の早さで的確な悪口を言う才能がない人間は、一生プライドを捨てて自虐の沼で嗤われるしか無いのだろうか。
いや、何も本人に面と向かって口で言うばかりが悪口ではない。
芸を通じて婉曲に悪口を言うという手段はある。
たとえばモノマネである。
近時、モノマネ芸人に対して、モノマネされた芸能人のファンから抗議が殺到し、ブログが炎上するなどの騒ぎが頻繁に起こっている。そしてその都度「悪意をもってやってなどいません。私は○○さんのことが大好きで、リスペクトしているからこそモノマネしているんです」といったコメントが流される。
こういった表面的なやり取りは炎上をしずめるためのお約束とはいえ、あまり意味のあるものとは思えない。
もちろんモノマネというのは「モノマネされる本人」あっての芸なのだから、「この人がいるからこそ自分の芸は成立している」という敬意は必ず払わねばならない。
しかし、その人の特徴的なところを殊更にあぶり出し、笑える芸にするのだから、悪意がないわけはないのだ。
コロッケが野口五郎の真似をして鼻くそを食べるとき、そこに敬意しかないとは誰も思わないだろう。
モノマネは敬意と悪意、両方が無ければ、面白くならない、そういう芸だ。
ならば、胸を張って「悪意をもってやってます」と言えるくらい、振り切ったモノマネをすればよい。
二度や三度の炎上でくじけずに、悪意と同じくらい大きな敬意を持ってさえいれば、きっと世間はわかってくれる。
------
坂上忍は悪口を言うことが許されている人間なのか、ここではそこは判断しない。
しかし、彼は現代において人の悪口をテレビで言うという修羅の道を選んだ。その勇気は評価されるべきだと思う。
ついでに言うと斬られ役として、野々村真を選ぶというチョイスもなかなか素晴らしいと思う。
もしかしたら、力も技術も及ばず、坂上忍バブルは哲夫の言う通り、ゆくゆくははじけるのかもしれない。
だが、それもギャンブラー坂上忍らしくていい。そう思うのだ。
長いのだが産経の記事を引用する。
「テレビで坂上忍ばっかり出さないようにする。本当に面白い上方芸能を出していく!」
おめでたい席で、マイクを向けられた哲夫さんが言い放つと、周囲は一瞬凍りつきました。お祝いに駆けつけた小籔千豊さんがすかさず「ものすごくいい人ですよ。僕メル友ですから」とフォローしたものの、客席からはこの日一番の拍手が起きました。この後行われた受賞会見でも、哲夫さんの“独(毒)演”は止まりませんでした。
「大賞受賞者ということを自負して、今後の上方芸能のリーダーになるべく、まい進していきたい。その小手調べに坂上忍を落としていく」
最初はタレント同士のよくある話と思っていましたが、この後、彼の発言が説得力を帯びて耳に入ってくるのです。
「(僕らの漫才が)国民の皆さんの疲れを癒やせる娯楽になればいい。疲れを癒やすには腹の底から笑うこと。でも、昨今の全国番組を見ていて、他人の悪口を言う“坂上的発言”では皆さんの疲れを癒やせていないのではないか。あの人が出ることで、上方を代表するような芸人の枠が1つ減ります」
「大阪のテレビ局発の全国番組がもっと増えていかないといけない。そういう中で、自分の冠(番組)で発信していけたらと思います。あと15番組ぐらいあっていいと思います」
なかなかの宣戦布告だと思う。
しかし、ここで私が話したいのは、哲夫擁護でも坂上擁護でもなく、現代において人の悪口を芸とすることの難しさ、である。
その昔、1980年漫才ブームの頃、春やすこ・けいこという女性漫才コンビがいた。
彼女達の芸は、やすこが芸能人の悪口をまくしたて、けいこがそれを諌めるというもので、「松田聖子のレコード大賞新人賞な、あれ絶対うそ泣きや、涙一滴も出てへん」「あんた何いうてるん」的なストレートな悪口であった。
当時、やすこ・けいこに対しても、悪口を言われた芸能人ファンから風当たりはあったようだが、当の彼女達は、ただひねりのない悪口を言っていただけにも関わらず、漫才だけでなくドラマ出演、グラビア、レコード発売、など大いに人気を博した。
もちろん彼女達が、そこらのアイドル以上に優れたルックスであったというのも人気の要因ではあったが、ただの罵詈雑言が芸とされていた時代があったのは間違いない。
時は流れて2011年、THE MANZAIで、女性漫才コンビ・チキチキジョニーが決勝進出した。
彼女達が披露したのは、今は1980年か、と見まがうばかりのストレートな女性芸能人悪口漫才で、つっこみの勢いでメガネが落ちるトラブルがウケた以外、正直会場の雰囲気は苦笑いであった。
ネットでもかなりの炎上があり、チキチキジョニーはこの後本気でこの路線で行く気だろうか、と思っていたのだが、最近テレビで見かけた彼女達はいつのまにか、全く正反対の「ブス自虐ネタ」に様変わりしていた。
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プライドさえ捨てれば自虐の方が楽に決まっている。
ネットで一般人が罵詈雑言を書き込める現代において、人の悪口を公に言うには「力」あるいは「技術」が必要になった。
悪口を芸と出来るのは選ばれた人間なのだ。
「力」というのは、相手にも世間にも有無を言わさない圧倒的な権力のことである。これは大御所やご意見番と呼ばれる人にだけ許された特権だ。
対して「技術」というのは「悪口を言うべき人間かを見極める技術」であり、また「反撃を許さない程にひと太刀で相手を斬る技術」である。簡単に言うと「相手にも世間にも、有無を言わせないほど面白い悪口が言える技術」である。
口で言うのは簡単だが、芸能界で、今、この境地に辿り着いているのは有吉弘行ほか数人しか居ない。つまり余程の才能と運がないとダメだということである。
ならば、猛烈な頭の回転の早さで的確な悪口を言う才能がない人間は、一生プライドを捨てて自虐の沼で嗤われるしか無いのだろうか。
いや、何も本人に面と向かって口で言うばかりが悪口ではない。
芸を通じて婉曲に悪口を言うという手段はある。
たとえばモノマネである。
近時、モノマネ芸人に対して、モノマネされた芸能人のファンから抗議が殺到し、ブログが炎上するなどの騒ぎが頻繁に起こっている。そしてその都度「悪意をもってやってなどいません。私は○○さんのことが大好きで、リスペクトしているからこそモノマネしているんです」といったコメントが流される。
こういった表面的なやり取りは炎上をしずめるためのお約束とはいえ、あまり意味のあるものとは思えない。
もちろんモノマネというのは「モノマネされる本人」あっての芸なのだから、「この人がいるからこそ自分の芸は成立している」という敬意は必ず払わねばならない。
しかし、その人の特徴的なところを殊更にあぶり出し、笑える芸にするのだから、悪意がないわけはないのだ。
コロッケが野口五郎の真似をして鼻くそを食べるとき、そこに敬意しかないとは誰も思わないだろう。
モノマネは敬意と悪意、両方が無ければ、面白くならない、そういう芸だ。
ならば、胸を張って「悪意をもってやってます」と言えるくらい、振り切ったモノマネをすればよい。
二度や三度の炎上でくじけずに、悪意と同じくらい大きな敬意を持ってさえいれば、きっと世間はわかってくれる。
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坂上忍は悪口を言うことが許されている人間なのか、ここではそこは判断しない。
しかし、彼は現代において人の悪口をテレビで言うという修羅の道を選んだ。その勇気は評価されるべきだと思う。
ついでに言うと斬られ役として、野々村真を選ぶというチョイスもなかなか素晴らしいと思う。
もしかしたら、力も技術も及ばず、坂上忍バブルは哲夫の言う通り、ゆくゆくははじけるのかもしれない。
だが、それもギャンブラー坂上忍らしくていい。そう思うのだ。
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